競馬とともに半世紀
今年も、もうすぐ12月です。早いですが、今年を振り返るに、プライベートには、ずいぶん、競馬場に行きました。2月にフェブラリーステークス、5月にオークス、6月に安田記念で東京競馬場、7月にジャパンダートダービーで大井競馬場、10月に天皇賞、11月にジャパンカップで東京競馬場。後、年末に大井の東京大賞典に行くかもです。
私の競馬歴は壮大なものがあります。父親は、地方公務員で、結構ひまな人だったので土日ともにテレビの競馬中継を見ていました。私が競馬中継を意識し出したのは、小学校の高学年の頃。当時の花形騎手に、郷原洋之さんがいました。花形なので、中継のある時間帯の特別レースにはしょっちゅう乗ります。その頃は、ルメールやムーアなんていう外国人騎手はいません。競馬開催も人も遥かに少なかったのではないでしょうか。ヒロユキという名前は私と同じ名前でもありました。そんなことで、幼い私は郷原騎手に惹かれ、競馬の世界にのめり込んで行くのでした。当時で記憶があるのは、アカネテンリュウ(丸目敏栄)やダテテンリユウ(宇田明彦)の菊花賞、郷原さんもクリシバで出ていたスピードシンボリ(野平祐二)とアカネテンリュウの有馬記念です。今、調べてみるとアカネテンリュウの菊花賞が1969年、ダテテンリュウの菊花賞が1970年、スピードシンボリが連覇した有馬記念は1969年と1970年なので、私が小学生3,4年ですね。競馬とは、馬券を離れて楽しめるものながら、やはり大人は馬券でも楽しめるという不思議なハイブリッド・エンターテイメントなのです。私は、そうして、郷原さんを追う形で競馬をずっと見て行くことになったのでした。
スピードシンボリの有馬記念連覇の後、郷原さんは、イチフジイサミとともに重賞、大レースを戦います。イチフジイサミは1972年、当時の数え方でいうと3歳でデビュー、何戦もかかって未勝利勝ち後、特別戦を2勝し、3冠はすべて出走し、皐月賞4着、ダービー2着、菊花賞3着。ハイセイコー、タケホープの後塵を拝しはしましたが、いわば3強を形成した馬でした。ダービーでは、郷原さんはケガで乗れなかったものの、タケホープの2着。これもG前でタケホープに内に切り込まれたせいで外に持ち出して差を詰めるも2着。実際は勝てていたレースかもしれません。騎手は津田昭さんでした。イチフジイサミの多くのレースは今でもYOUTUBEで見ることができますが、本当に多くのレースに距離関係なく出ています。当時はそういう使い方で、調教技術も今ほど発達していなかったので、レースを練習代りに使っていたのかもしれません。その意味で、イチフジイサミはいつもターゲットを長距離のレースの代表、春秋の天皇賞に絞っていた可能性があります。天皇賞は5歳秋にカミノテシオの2着(これも斜行された)、翌年春の天皇賞をキタノカチドキを破って1着になります。イチフジイサミの最初で最後の8大競争勝利でした。天皇賞は当時は春秋とも3200メートル、一度勝ったら勝ち抜きでもう出られないという制度でした。天皇賞を勝ったあとは、60キロの重量を背負わされて、5度の重賞レースを走って、上位にも来れず、引退となっています。イチフジイサミは、郷原さんというジョッキーにはピッタリな重厚な馬で、体は丈夫、真面目によく走りました。何度も斜行されて、運がよくなかったと言えるでしょう。派手な馬ではなかったので、宿命だったのでしょうね。
1974年デビューのグレートセイカン、1975年デビューのニッポーキングは郷原さんのお手馬で印象深い2頭です。グレートセイカンは重賞を3勝、ニッポーキングは4勝しています。グレートセイカンは5歳時に当時はダート重賞の札幌記念で、4歳の天馬トウショウボーイを破ったことで名が残っています。私がグレートセイカンに最初に注目したのは、1勝目の未勝利戦を大差で、あじさい賞という1勝クラスの特別を9馬身差で勝ったときでした。この馬は、キラリと光る傑出した能力を持っていました。その後も、準オープンクラスの条件戦を大差で勝ったりしています。8大競争は一度、4歳時に有馬記念に出ています。調子下降の時だったのと、まだ、2500メートルの長距離が合わなかったのでしょう、シンガリ負けをしています。調子と条件の合ったときは堅実に好走する良い馬でした。ニッポーキングは、名牝イットーの異父弟で、最終的に24戦して11勝と勝ちみに早い優秀なスピード馬でした。現在のように距離体系の確立した重賞競走路線があったら今でいうところのG1も取れていた馬だと思います。スピードがあって、安定した先行力を持っていたので、郷原さんは乗りやすいと思っていたことでしょう。ニッポーキングの8大競争の出走は、ダービーと菊花賞のふたつ。距離が合わずどちらも上位に来れていません(それでもダービーは27頭だての9着)。ニッポーキングは、競争馬時代の最後はノド鳴り(喘鳴症)を患ったことで現役を続けられなくなったと記憶しています。
1976年デビューの名馬は、私が一番思い入れのあるプレストウコウです。プレストウコウは24戦9勝。8大競争は菊花賞優勝、秋の天皇賞を2着、重賞は、NHK杯、セントライト記念、京都新聞杯、毎日王冠。私のプレストウコウへの思いは強かったので、走ったレースの記憶も濃厚なものがあるのですが、今、戦績を見ると、菊花賞を勝ったあとは、競争中止を入れても8戦しかありません。恐らく菊花賞の激走の疲れが残った4歳時の有馬記念4着、61キロを背負って、グリーングラスとカシュウチカラをなぎ倒したオープン競争(オープンという平地戦)、鞍ずれで競争中止した春の天皇賞(マトモならグリーングラスを破って勝っていたはず)、62キロを背負って安田富雄騎手を乗せて勝った毎日王冠、カンパ後の再スタートで引っ掛かって逃げ作戦に出て最後にテンメイに刺された秋の天皇賞。4歳時に体調不良でマルゼンスキーに大負けした日本短波賞や、菊花賞で関西のヒーロ―、テンメイを破ったヒール役がついて回ったり、何度もツキのないレースを走らされた馬ですが、これらの実績は、プレストウコウの最大能力が非常に高かったことを示すものです。秋の天皇賞で、最後、テンメイに差されたときに、差し返そうと必死で走った彼の姿は忘れがたいものがあるのです。彼は、レースで勝つことをいつも意識して走った非常に頭のよい馬だったと思っています。プレストウコウには、社会人になって最初の夏、北海道の牧場めぐりをしたときに会いに行きました。
郷原さんをダービージョッキーにしてくれたのが、1979年デビューのオペックホースでした。オペックホースは、不良馬場の皐月賞2着を経て、ダービーでモンテプリンスをG前強襲してダービー優勝を果たしました。450キロ程度の小さめの馬体ながら全身の筋肉を躍動して長い脚を使えた栗毛のきれいな馬でした。オペックホースは、ダービー後、1勝もできなかった馬として有名になってしまいましたが、ダービーまでは一所懸命に走る強い馬だったと思います。ダービーでのゴール後、口を開いて、かなり苦しそうに思えたことを覚えています。激走の反動の予感が少し頭をよぎったのでした。その反動があったことと、体が小さかったので成長力が乏しかったこと、それからレースの使い方に戦略がなかったと思います。昔は距離適性を考えずに闇雲に出走させることが普通のことだったので仕方ないところはありますが。
次は、1987年から1988年にかけて古馬短距離G1の3冠を達成したニッポーテイオーに行く前に、1983年デビューのハヤテミグに触れます。ハヤテミグは、新馬・400万下とダート戦を連勝した後、ダート戦連勝のためかスプリングSに出たものの低評価の10番人気を覆して2着に入り、一躍、皐月賞有力馬になりながら、骨折で出走取消。クラシックを棒にふってしまったのでした。基本的にステイヤー血統なのに、凄いスピードを持ち、レースセンス抜群。2400メートルのダービーなんか十分狙えた馬だったと思います。10カ月近くの休養を経て復帰した2戦目のオープン特別を勝ったあと、不良の日経賞を逃げ切り勝ち。重賞初制覇をします。春の天皇賞は期待したのですが、経験不足だったのか5着に終わります。天皇賞の後に使ったオープン特別がなぜか惨敗だったのですが、夏の新潟のマイル戦、関屋記念に出走してレコード勝ちの圧勝。そして、新潟記念にエントリーしたのですが、2度目の出走取消をして、これが最後となってしまいました。通算10戦5勝。早期に引退して種牡馬にはなれました。スピードのあるステイヤーというどう考えてよいか分かりずらい馬だったのは確かですが、血統からしてステイヤー。天皇賞馬で大成してほしかった馬でした。
さて、ニッポーテイオーは1985年デビューで、当初は久保田金造厩舎所属の蛯名信広騎手が乗っていて、4歳のNHK杯から郷原さんに乗り替わっています。ラジオ短波賞でもう一度、蛯名騎手が手綱を取りましたが、以降はずっと郷原さんが乗り続けました。この馬は、郷原騎手人生においてほぼ唯一の王道を行く馬で、5戦目以降はすべて1番人気か2番人気となっていました。結果として、マイルチャンピオンシップ、安田記念、天皇賞秋の短距離路線の古馬3冠をすべて勝ちました。それ以外の重賞は、ニュージーランドトロフィー4歳S、函館記念、スワンS、京王杯スプリングカップを勝っています。その他大レースは宝塚記念を2年連続2着。7戦目以降はすべて3着以内。3着は1回だけ。通算21戦8勝でした。強かったのですが、取りこぼしが多かったと言えます。基本、逃げ主体の先行馬なので、一瞬の瞬発力にすぐれたライバルのダイナアクトレスには結構やられました。上記の古馬短距離3冠にしても最初の2戦が2着に負けて、天皇賞秋を勝ってから、負けた2戦のレースをリベンジしたのでした。個人的に悔しい思い出は、最後の宝塚記念でした。やはりニッポーテイオーには2200メートルは勝ち切るのが難しい距離で、引退前のレースで大事に乗ったのと、相手が上昇一途のタマモクロスだったのですが、それでも勝ちたかった。しまいの力強いタマモクロスを抑えるには3~4角あたりでロングスパートして引き離す戦略が唯一だったかもしれませんが、引退前だと無理はできなかったでしょうねー。ちなみに、この宝塚記念の前週のニュージーランドトロフィー4歳で笠松から移ってきたオグリキャップが移籍後4連勝目を飾ります。タマモクロスは、10月の天皇賞秋でオグリキャップを2着に沈め、オグリの移籍後7連勝を阻止したのでした。タマモクロスはその天皇賞秋が8連勝目でした。タマモクロスはこの年の有馬記念でオグリキャップに後を託すように2着となり引退。翌年からオグリキャップ、イナリワン、スーパークリークの平成3強の凌ぎあいが起こり、競馬人気は頂点に達するのでした。
以上、郷原さんとそのエポックメイキングをした名馬たちとと共に競馬の思い出を回顧してみました。
ここで取り上げた名馬たちの戦績はこのサイトを見ると詳細が見られます。昔の馬たちもカバーした素晴らしいサイトです。感謝しかありません。
今の競馬と昔の競馬はかなり違います。昔の日本は競馬後進国であり、馬の実力も世界では歯が立たないレベルでした。短いレース間隔、重い重量、走る距離もバラバラとか、そういう理由もあって連戦連勝みたいな馬は滅多に出ない環境だったのかもしれません。でも、競馬を構成するのはすべて生き物であり、レベルの高低はあるものの、多数の不特定の要素が絡んで本当に面白いドラマが展開されました。1984年ダービー馬のシンボリルドルフあたりからが日本の競馬の近代化の始まりだったでしょうか。強い馬はほぼ負けないようになって来ました。その前も後も競馬は変わらず面白いことは、高い人気がずっと続いていることが証明しています。
美しく、繊細で、優しく、愛らしいお馬さんたちに感謝です。