母の日の光景から思い出したある書籍
本日は母の日。
娘は母の日が近いことは知っていたものの、妻(娘の母)のフェークニュースにより、来週日曜日と思っていたことが朝方に分かり軌道修正。友達と来週に買いに行く予定を今日に変更しました。娘の兄はそんなことには無頓着。ここ数年の我が家はずっとこんな感じです。
娘が花を買いにゆく花屋さんは、娘が通う小学校の隣にあるお店。聞くところによると、今日は、店内への大人の立ち入り禁止とのこと。午前中に、娘は友達と二人でお店に行き、無事に買って来られました。そして、私は15時ごろにその花屋を通りがかったのですが、まだ、子供たちが店内に、大人たちが店を取り囲んでいて、賑やかでした。昨年の今頃、緊急事態宣言が出た影響で、花の需要が減って花屋さんが窮地という話を聞いて心配したものですが、花屋さんで店を閉めたところは近所では見たことがありません。まずは花屋が元気にそんなイベントを行っていることを喜びたいです。
そんな子供たちが主役の光景を見るにつけ、最近は、こういうのどかな光景がいつまで続けられるのだろうかと、暗澹たる不安な気持ちが心をよぎることが悲しい。
子供たちを大切にする国柄が日本にあることはよく聞きます。ヨーロッパ諸国はよく知りませんが、アメリカでは、子供は赤ちゃんのころから別の部屋で寝かせてしまう。多少成長したところで、親たちはベビーシッターを雇って、夜に映画を二人で見に行ったりする。大人は子供を中心に据えることはないのです。どちらがいいかということは言えないのですが、その考え方の違いはどこから来るのかは興味深い。
明治時代に日本に来て日本を観察した外国人で、上記の子供を大切にする日本ということに感銘を受けたというエピソードが紹介される際に取り上げられる古い書籍があって、『逝きし世の面影』というタイトル、渡辺京二著がそれです。私はこれまで読む機会に恵まれておらず、いつか読んでみようと思っている書籍でしたが、今日の母の日の光景やら、グローバリズムで危機に瀕する日本への思いが強まるにつけ、ここで書籍の存在を共有しようと思い、内容についてちょっと調べてみたところ、恰好のサイトを見つけました。=> 松岡正剛の千夜千冊
松岡正剛(せいごう)さんは、渡部昇一さん亡き後の屈指の「知の巨人」と私が思っている人で、このサイトは正剛さんが千冊分の書評をしているサイトです。実際には千冊以上あって、それぞれが半端ない量の記述なので、このサイトも私が読破を憧れるサイトのひとつ。この千何冊のなかの一冊で、『逝きし世の面影』が取り上げられていました。 => 逝きし世の面影
これをざっと拝見させていただいて、大きすぎる事実を知らされました。このタイトルの中の「逝きし世」というのは日本を指しているのでした。江戸時代から明治維新を経て変貌した日本について、それ以前の日本が死んだということです。外国人、とくに欧米人から見て変貌前の日本は全く特異な国に見えたと思われ、その劇的な変貌は国の死と見えたと私は解釈しました。日本らしさの喪失の最初はこの時か、と衝撃の知覚です。現在進行形の日本らしさのはく奪攻勢は、すでに100年以上前に巨大な一撃が加えられた。そうであれば、私がいま非常に心配している、日本らしさの喪失については、深刻に受け止められる度合いも少なくなってしまうのでしょう。そして、考えるべきは、果たして、現在のものは第何次か?そしてこれが最後か?ということになります。
現代は確かに何事も機械化高速化されていて便利な世の中で、100年以上前に日本が欧米化のかじ取りを決断したおかげでこうなっているのは事実です。正剛さんの論の中の”オールコックは日本を見て、「ヨーロッパ人が、どうあっても急いで前に進もうとしすぎている」ことを実感せざるをえなくなり”という文章のあたりで欧米の闇雲な文明化スピードへの反省の記述をしているとおり、伝統を残すことも重要なのです。この段階で、日本が伝統と進歩のあいだのどこを取るかを決めて、外国勢力に対抗していくことが絶対に必要と思います。
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